【 概 要 】−高山城は室町時代に飛騨国の守護職京極氏に従った多賀徳言によって築かれたとも云われています。多賀徳言がどの様な人物かは判りませんが、近江国に鎮座する多賀大社(滋賀県犬上郡多賀町多賀)の神官職だった多賀氏一族だったと思われます。京極家は近江源氏、佐々木氏の別家で近江(現在の滋賀県)に本拠を持ちながら室町時代に出雲・隠岐・飛騨の守護を代々務め、多賀氏は京極氏の被官として行動したようです。長享元年(1487)に多賀氏の宗家と思われる多賀宗直は主家である京極氏に反乱を起こして討ち死にした為、出雲守家は断絶した事から高山城の城主も多賀氏では無くなったと思われます。高山城には多賀天神(多賀大社の分霊が勧請された社と思われます。)が祭られていた事から多賀城と呼ばれていたようですが、多賀氏が没落後に城主となった高山外記がさらに拡張整備した事から高山城と呼ばれるようになったそうです。しかし、新たに飛騨国の守護代となった三木自綱によって高山外記が撲殺された為、高山城は一時廃城になったようです。三木氏は高山城の近くに松倉城を築き一時飛騨国を掌握しましたが、その後、豊臣秀吉に従った金森長近が三木氏を滅ぼし、改めて高山城を居城として整備しました。金森長近は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは大恩ある豊臣家を見限り東軍(徳川家)に与した為、東軍が勝利すると領土を安堵され高山藩を立藩し初代藩主に就任しています。しかし、江戸時代中期に後裔が上山城(山形県上山市)に移封となり高山城を離れる事になり、その後加賀藩(本城・金沢城)が管理するものの数年後には廃城となっています。
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