岐阜県・高山市・飛騨一宮水無神社

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【 概 要 】−飛騨一宮水無神社(岐阜県高山市)の創建年は不詳ですが、境内背後の位山(標高:1529m)は飛騨一宮水無神社の御神体とされ、古代から霊山として信仰の対象になってきました。山頂付近は巨石が点在し、古代人の素朴な自然崇拝の対象だったようです。中央にも聞こえた存在で、歌枕にもなり新古今・巻第十八・雑歌下・源通親には「位山あとをたづねてのぼれども 子を思ふ道になほ迷ひぬる」が記載されています。名前の由来は古代から現在に至るまで天皇即位の際には位山で採れたイチイの笏が献上され、当時はこのイチイに対して官位が授けられていた事が起因になっているとも云われています。両面宿儺の伝説も伝わり、それによると、朝廷の討伐軍が飛騨に侵攻し高沢山に陣を張ると、宿儺は位山の山頂まで登り討伐軍の様子を見た後に官軍の将雄仁に使者を派遣したと伝えられています。一方、水無神社に伝えられている伝説によると、位山には七儺と呼ばれる悪鬼が巣くっていた為、天皇の勅令により宿儺が討ったとされ、水無神社には七儺の頭髪が収められていると伝えられられています。両面宿儺は古代飛騨国を治めた人物とされますが、朝廷に従わなかった事から異形な化物として征伐され、逆に飛騨地方では当地を開発した英雄として語り継がれています。

水無神社が古文書で登場するのは平安時代からで「日本文徳実録」と「日本三代実録」に神位が授けられていた事が記載され、当時の格式の高い神社が列記された延喜式神名帳にも式内小社として名を連ね、飛騨国8座筆頭(飛騨国一宮)に格付けされました。その後、歴代為政者や領主から崇敬庇護され、特に戦国時代には領主である三木家と水無神社の神官一宮家が縁戚関係を結んだ事で政治的にも大きな役割を持つようになります。しかし、それが仇となり、豊臣秀吉に従った金森長近が飛騨に侵攻し三木家が没落すると、水無神社も連座し衰退を余儀なくされています。水無神社の体制が一新すると、金森家から庇護を受けるようになり社殿の造営や社領の寄進が行われるようになり再び飛騨国一宮としての体裁が整えられています。江戸時代までは神式と仏式の両方が信仰される神仏習合し、境内にも仏教色の強い阿弥陀堂、鐘堂、仁王門などが建立されていましたが、明治時代に入ると分離が求められ、仏式が一掃され国幣小社に格付けされています。

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