岐阜県・飛騨市・林昌寺

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【 概 要 】−林昌寺が何時頃から開かれたのかは判りませんが中世は姉小路家の菩提寺だったとされます。姉小路家は小一条流藤原師尹の子供である藤原済時が京都の姉小路に居宅を構えた事から地名に因み姉小路氏を称するようになった氏族で、南北朝時代に飛騨国司に就任すると当地に赴任し長く飛騨国を治めました。しかし、戦国時代になると一族同士による勢力争いと三木家の台頭により没落し、名跡を奪った三木家も豊臣秀吉(当時の羽柴秀吉)に従った金森氏によって滅ぼされ、当寺も庇護者を失い衰微しました。天正17年(1589)、新たに飛騨領主となった金森長近の娘婿可重が増島城の城主となり、実家である長屋家の実父母の菩提を弔う為、天翁秀梅を招いて中興開山しています。天翁秀梅は金森長近、可重に帰依され、領内の高隆山素玄寺や天照山円城寺の再興や開山に携わり曹洞宗の布教に尽力しています。可重の父親である長屋景重は田口城の城主でしたが佐藤方政の侵攻により城が落城し、可重を頼り古川に移り住み寛永5年(1628)に当地で死去、菩提は当寺に葬られ、戒名から「林昌寺」に寺号を改称しています。正面の山門(切妻、銅板葺、薬医門形式)は天正年間(1573〜1593)に築かれた増島城の城門とされ元和5年(1619)に発令された一国一城令により増島城が破却された際、当寺に移築したものと伝えられるもので昭和33年(1958)に飛騨市指定史跡に指定されています。寺宝には金森可重の画像や同家書簡、同家軍扇、屏風等金森家縁のものを多数所有し、本堂背後の墓地には金森家の墓があります。本尊は釈迦牟尼佛、飛騨三十三観音霊場12番札所。本堂は天明年間(1781〜1789)に再建されたもので入母屋、銅板葺、正面唐破風向拝付。
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