【 概 要 】−崇禅寺(土岐市)は文和3年に土岐明智彦九郎頼重(法名:崇禅寺殿万春浄栄大禅定門)が開基、果山禅師により(形式上は果山禅師の師である夢窓国師を開山者としています)創建されました。開基者である土岐頼重は美濃国守護職だった土岐頼貞の9男土岐頼基の子供で、観応2年(1351)に従兄にあたる明智頼兼の養嗣子となり明智家を継ぎました。頼兼の時代に明智家の領地が拡大しており明智家の祖と呼ばれています。諸説ありますが、後に織田家四天王に数えられ、本能寺の変を起した明智光秀は、この明智家出身という説がります。崇禅寺は明智家歴代の菩提寺として帰依を受けた事で寺領の安堵や堂宇の造営が繰り返され領内最大の寺院として発展しました。明智家が没落すると、その後裔である妻木家が妻木城の城主となり周辺を支配し、崇禅寺を歴代の菩提寺として引き続き庇護しました。明智光秀の出現により妻木広忠は再び明智家に従い、娘である煕子は光秀の正室になるなど関係を深めます。天正10年(1582)の本能寺の変でも光秀に従い、山崎の合戦後も妻木城に立て籠もり抵抗を続けています。その後、豊臣秀吉の家臣である森長可に従い、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍に与した事で領地7千5百石が認められ、崇禅寺も引き続き庇護されました。古くから神仏習合していた事から境内には随所にその痕跡が見る事が出来ます。
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