岐阜県・垂井町・垂井城

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【 概 要 】−案内板によると「 ここは関ヶ原合戦に活躍した西軍の武将平塚為広の居城跡と云われています。平塚為広は豊臣秀吉に仕え、1万2千石の垂井城主となりました。大谷吉継と西軍に属し、伏見城の戦い、大垣城の譲渡交渉などに活躍し、決戦当日には、病気の吉継に変わり、太谷隊を指揮しました。小早川秀秋が西軍を裏切り太谷隊へ攻めかかると、為広は大長刀を振り回し、小早川隊を再三追い返しましたが力尽き、山内の家臣樫井太兵衛に討たれました。敗軍の中、辞世の歌を大谷吉継に送っています。【 名の為に捨つる命はおしからじ ついにとまらぬ浮世と思えば 】 垂井町教育委員会 」とあります。明確な遺構がないため、正確な位置や規模などは不詳。文献などから垂井宿の西南方向にあると推定され、この地が周辺より高く城を築くのに有利なのでは?との推察から垂井城跡の比定地となっています。城下町と思われる場所は江戸時代には中山道の宿場町の1つ垂井宿として整備され、特に東海道の宮宿(愛知県名古屋市熱田区)とを結ぶ美濃路(脇往還)との分岐で、美濃国一宮、名神大社だった南宮大社(祭神の金山彦命は鉱山や金属を司る神だった事からその本社として関係者から篤く信仰されました。)の最寄の宿場町だった事から多くの旅人や商人が利用し大変賑い、何時しか垂井城の事も忘れ去られたと思われます。
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