岐阜県・白川郷(合掌集落)

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【 概 要 】−白川郷(岐阜県白川村)は、岐阜県に存在する庄川流域の呼称で、主に白川村、旧荘川村、旧清見村などが含まれていた地域です。明治時代以前は周辺に高い山々に囲われていた事から、外部との繋がりが限定的で、結果的に独特な文化や生活形態がはぐくまれました。隣接す富山県側の五箇山地区(富山県南砺市・相倉集落と菅沼集落は白川郷と同じ茅葺合掌集落で国重伝建地区と世界遺産。)と共に、平家落人伝説が伝えられており、それによると平安時代末期の源平合戦の一つ倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲率いる源氏軍に敗れた平家一門の一部が白川郷に逃れたとされ、御母衣集落の大戸家は平家家臣の後裔を伝えています(大戸家住宅は御母衣ダム建設に伴い下呂温泉合掌村に移築保存されています)。中世に入ると、浄土真宗の布教が盛んになり多くの住民が信仰するようになったとされ、正蓮寺(照蓮寺)がその拠点として周辺領主にも脅威を及ぼす存在となっています。室町時代に入ると足利将軍家の有力御家人の内ケ島為氏が白川郷に配され、その後対立した正蓮寺は全山焼き討ちにあい大きく衰退しています。内ケ島氏は白川郷を拠点として五箇山などにも勢力を拡大していましたが、天正13年(1585)11月29日に発生した天正地震により居城である帰雲山城は山津波により城下町ごと飲み込まれ、現在その位置すら判らない程に崩壊し、主要な一族は一夜にして滅亡しました。これにより対立していた高山城の城主金森氏により難なく白川郷が接収され以後、高山領(江戸時代前期は高山藩、中期以降は天領高山陣屋支配。)に組み込まれています。明治時代以降に交通網の整備と共に、独自の文化や風習は失われつつありますが、現在でも白川郷の萩町地区は和田家住宅(国指定重要文化財)や明善寺(岐阜県指定重要文化財)、寺口家住宅(白川村指定有形文化財)、長瀬家住宅(一般公開)、神田家住宅(一般公開)などの合掌造りの古民家が数多く残され、昭和51年(1976)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、平成7年(1995)にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されています。
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